|
上篇
琉球,泛指琉球群岛。早在《隋书-东夷传》里就有关于琉球国的描述,这是最早的文史记载(1)。史上还有流鬼,琉求,留求等称呼,自《明-实录》以后就一直被称做琉球(2)。琉球群岛是被中国命名的(3)。
14世纪的琉球岛,经过长期的部落冲突,终于产生了三个小国,分别是北部的山北国,中部的中山国和南部的南山国。当时三国鼎立,纷争不断(4)。1372年,应明太祖洪武帝的诏喻,中山国王派遣弟弟赴京接受明朝册封,建立了琉球群岛与大陆最初的从属关系。这个关系一直存续了500多年,深深地促进了琉球群岛与大陆的连接(5)。直到1872年(日本明治5年)琉球群岛被强行划入日本版图,79年被更名为冲绳群岛(6)。
依靠明朝的后盾,中山国的国势明显超过山北国和南山国,积蓄了统一全岛的实力(7)。其他两国也争先恐后地得到了明朝册封,继续各自的抗争。虽然在1383年明太祖洪武帝曾派遣使臣劝喻三国国王放弃抗争,但最终还是由1406年夺得中山国实权的尚巴志,于1416年灭亡了山北国,于1429年灭亡了南山国,统一了琉球群岛,开启了尚氏家族统治500多年的琉球王国。三山鼎立的时期,在琉球历史上,被称为三山时代(8)。
中篇
三山时代,南山王国的第二代国王是承察度,现在成为旅游地的马天港就是承察度的叔父汪英紫为了强化明朝联系,方便大陆贸易,发展南山国经济而建筑的(9)。汪英紫的三子汪应祖受承察度派遣赴北京留学,回国后依仗父亲汪英紫的势力,赶走了承察度,成了南山国的第三代国王,并得到了明朝的册封(10)。汪应祖死后,其儿子他魯毎继任第四代南山国王(11),也是南山国的末代君王(12),没有留下姓名的记载。
下篇
1,琉球群岛的时代,可以简单划分为:蛮荒时代=三山时代=尚氏时代=近代,三山时代对应明朝初期;
2,隋唐以后的历次乱世,宋朝东南海上贸易的繁荣,元代对日本的征伐,以及其它原因,应该有汪姓子孙迁移到了琉球群岛;
3,汪英紫汪应祖父子,应该不是琉球岛上的土著人;
4,汪英紫汪应祖父子,是唯一同时见载于中国和日本历史的汪姓人物;甚至,还有可能是整个日本史中唯一的汪姓人物;
5,承察度是南山王国二代国王的号,最终流亡海外,不见所踪,其姓名未见史载(野史有言其逃亡到朝鲜)。根据与汪英紫的叔侄关系推测,也应该姓汪;
6,汪英紫是南山王国里只手遮天的权势人物,生前并没有称王,墓地位于现在的沖縄県糸満市大里,保存至今(13) ;
7,汪应祖是得到明朝正式赐封的琉球南山国国王,称其琉球岛汪王,应该是当之无愧的罢!
参考资料
1,日本大百科全書(小学出版社)
2,二十四史卷三百二十三明史•列传第二百十一外国四
3,<中山世譜>
4,日本<名墓録>
注1,原文:“琉球 沖縄の別称。琉球諸島を範囲とする。中国の、『隋書』東夷伝に流求国に関する記事があり、これは琉球の名が史上に登場する最初のものである。”(執筆者:堂前亮平)
注2,原文:“その後、流鬼、瑠求、留求など種々な文字が使用されてきたが、『明実録』以後、琉球となっている。”(執筆者:堂前亮平)
注3,原文:“のちに中国側からの呼称に従って、琉球とよばれているものである。”(執筆者:堂前亮平)
注4,原文:“14世紀から15世紀初期の沖縄に存在した三つの小国家,北部一帯に山北が、中部地方に中山が、南部地方に山南が鼎立し抗争を繰り返していた。”(執筆者:高良倉吉)
明史:”琉球居东南大海中,洪武初,其国有三王,曰中山,曰山南,曰山北,而中山最强。”
注5,原文:“72年、明の太祖洪武帝の招諭に応じて弟泰期を遣わし、中国との間に初めて進貢関係を樹立した。この関係は以後500年余にわたって存続し、中国と沖縄(琉球)の深い結び付きを促すこととなった。”(執筆者:高良倉吉)
明史:”洪武五年正月命行人杨载以即位建元诏告其国。”
注6,原文:“その後、1872年(明治5)琉球藩が設置されたが、79年に廃藩、沖縄県となった。”(執筆者:堂前亮平)
注7,原文:“これにより中山の勢力は他の小国家(山南、山北)に比べて優位となったが、余勢を駆って統一国家を建設するに至る。”(執筆者:高良倉吉)
注8,原文:“他の二山もただちに同様の関係を樹立して抗争を続けた。83年、明の太祖洪武帝は使臣を遣わして、対立をやめるよう三王に説諭したが、やまなかった。1406年、ダークホースのように登場する佐敷按司尚巴志は中山を攻略して覇権を手中にすると、16年には山北を、29年には山南を滅ぼして沖縄を統一し、琉球王国を発足させた。三山鼎立の時代を沖縄歴史では三山時代とも称している。”(執筆者:高良倉吉)
注9,原文:“14世紀、三山分立時代、南山正統の2代目承察度の叔父汪英紫は、馬天港を修築し、対明貿易を行い、大里を発展させた。”(執筆者:堂前亮平)(大理==南山国都)
注10,明史:”永乐元年春,三王并来贡。明年四月,山南王从弟汪应祖亦遣使告承察度之丧,谓前王无子,传位应祖,乞加朝命,且赐冠带。帝并从之,遂遣官册封。”
<中山世譜>:"本年四月,山南王承察度從弟汪應祖亦受封於朝。"
注11,明史:”推应祖子他鲁每为主,以十三年三月请封。命行人陈季若等封为山南王,赐诰命冠服及宝钞万五千锭。”
注12,<中山世譜>
附 山南王:
大里(在位年數不詳)
承察度(在位年數不詳)
汪應祖(在位十一年)
他魯毎(在位二十五年)
注13,日本<名墓録>
登记号 姓名 職業 所在地 戒名
12995 王叔汪英紫 島尻大里城主 沖縄県糸満市大里 島尻大里城按司墓
后记
1,常恨碌碌,强自觅暇整理之,每每不觉更深,今收尾在即,勉力一博,岂知鸡将鸣矣;
2,初,读中山王遣弟赴京,建500年朝贡制度一事,误为南山国初代汪王遣其弟汪英紫所作,窃以为其绩可追安徽汪王,不觉大奋。及反复比对,始识其中之谬,深感大愧。谨坦记之。
(另:本文不妥之处,盼不吝垂教.转发或引用,冀征得<汪氏宗亲网>许可.) |
|